その59 「原罪」

2015.01.18

これで納得!!!救いの一本道④

創世記 3章1-13節

 キリスト教ではよく「人間は皆罪人」などと言われますが、多くの人が「自分は一度も法律違反はしていない。まあどちらかと言えば善良な市民だ。どうして自分も罪人などと言うのか。」そう考えると思います。罪とは何でしょうか?

1、 神から離れている状態が罪(原罪)。

 キリスト教の教える罪の大元は行為ではなく、状態です。本来神によって創られ、愛され、神とともに生きるために存在している人間が神から離れている状態を罪(あるいは原罪)と呼んでいるのです。 神は「その木の実をとって食べたら死ぬ」と警告されました。この「死ぬ」という意味は単なる肉体の死だけではなく、神との永遠の命の交わりが断ち切られるということをあらわします。神と人との間に大きな溝ができ、人間は神を直接知ることができず、霊による交流ができなくなってしまいました。

2、 罪がすべての苦しみの原因。

この神から離れた状態から、私たち人間の苦しみや不幸の原因が表れます。

①  互いに裁きあうようになる。

 神様が食べてはならないと言われたのは「善悪の知識の木の実」でした。善いことと悪いことが分かることは良いことではないか。そう思いますよね。でもそれは自分を基準として、善悪を判断する。つまり自分中心で周りの人を裁くようになる。自分は善で他人を悪とする。これが人間の根本的な苦しみ、不幸に繋がるのではないかと言うことなのです。考えてみれば、私たちの人間関係の悩みはすべてここから来るのではないでしょうか。

② 恥の意識を持つようになる。

3:7 ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 木の実を食べた2人はどうなったでしょうか。目が開かれて自分たちが裸であることに気がついた。これも一見悪いことのようにも思えません。でも裸であることに気がついたというのは、自分にないものに気づき、自分自身に対して満足できなくなったことを意味します。自分は何てダメな人間だろうというコンプレックスに苦しめられるようになったことを表しているのではないでしょうか。そして自分を取り繕って、人の目をごまかして、生きていかなければならなくなったということです。

③ 恐れを持つようになる。

3:10 彼らは恐れて、隠れた。

 いつもなら喜んで神様の前に出るところを、神様が怖い。自分の本当の姿を見られたくないと思うようになりました。これも多くの人の苦しみの根本にあるのではないでしょうか。

④ 自分を正当化する。

3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

「自分のせいじゃない。あいつが悪いんです。」特に12節の男の言葉は、女のせいにすると同時に「神様あなたにも責任があるのではないですか」、と言っているようですね。素直に自分が悪かったと認めたくない。自分を正当化して、何とか他人のせいにしたい。これも人間の苦しみの原因ではないでしょうか。

3、神は人を捜している。

 私たちは心の底に、あの2人と同じような問題があるために、苦しみ、傷つき、恐れ、孤独に苦しんでいます。その状態を罪と呼んでいます。しかし神様は私たちを捜してくださっているのです。この神の呼ぶ声に応えることが信仰です。今神の呼びかけを感じるならば、素直に応答しましょう。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」   創世記3:9