その142 真の和解

2017.07.09

ヨセフの生涯⑦

創世記50章15-21節

ヨセフの兄弟たちは17年前にヨセフと再会し、受け入れられていたにも関わらず、心の底ではまだヨセフを恐れていました。「もしかしたら父ヤコブが死んだ後で、復讐されるかもしれない」と思っていたのです。そこで兄弟たちは父ヤコブの名を使って、自分たちの身の安全を保証してもらおうとしました。ヨセフはそれを知って、きっぱりと否定し、ここで完全な和解が成立します。

1、 赦しを確信できない人間の姿。

 この兄弟たちは自分が赦されたことを信じることができずに、20年近くも、「いつか弟に復讐されるのではないだろうか」と心配しながら過ごしていたことになります。とても愚かな姿に見えますが、実はクリスチャンの中にも、イエス・キリストを信じて何年も経ち、信仰生活を送っているのに、この赦しの確信を持てないまま何年も教会生活を送っている人がたくさんいるのです。「赦されていないのではないか」という不安を心のどこかに抱えたままで、それを隠しながら信仰を続けている人が実際におられるのです。それはこのヨセフの兄弟たちと同じ姿です。もし私達クリスチャンに赦されているという確信がないのなら、それは本当にむなしい、苦しい人生と言わなければなりません。

 聖書は一度イエス・キリストを自分の救い主として心の中に迎え入れたのならば、罪に定められることは決してないと教えています。全知全能の神が、赦すと宣言しておられることに、疑いを持つことは、神様の偉大な愛の力を信じることができないのと同じです。この十字架の御業を信じましょう。

2、神と人間の領域をわきまえる。

 ヨセフは人を罪に定めて、裁くことは神様の仕事であって、人間にはできないのだと理解していました。ですから「私が神の代わりでしょうか」と言ったのです。多くの人が人を赦すことができず、人を裁くことによって、自分自身を苦しめています。それは神様の領域と人間の領域をわきまえていないからです。ヨセフの姿は、自分がどんなにこの世の権力を持とうと、人間には犯すことのできない、神様の領域がちゃんとあるのだと知っていたことを教えています。それがヨセフの祝福の秘訣でした。

 もう一つ教えられるのはすべてのことを神様の計画と受けとめる姿勢です。ヨセフは自分の人生に起ったすべてのこと、特に苦しみが神様の計画であり、このように多くの家族が救われるためであったと確信していました。だからこそ、兄弟を恨むことがなかったのです。神様は私たち一人一人を大事に思っておられ、その行く道一つ一つに心を配っておられるのです。そのことを信じて、これからも信仰者の歩みを続けていきましょう。

3、真の和解。

 創世記で最初に起こった殺人はカインとアベルの兄弟間で起こりました。その後もイサクとイシュマエル、エサウとヤコブなど、兄弟間の苦悩と争いが一貫して描かれています。そして最後にヤコブと兄弟たちの真の和解で創世記が終わります。

 人間関係という最も難しい人生の苦しみ。特に近しい人ほど愛せなくなるという人間の弱さの解決を聖書は教えています。真の赦しと和解は人間の力によって出来ることではありません。神様の存在を認め、導かれていると分かった時に初めて出来ることなのです。それを教えているのがキリストの十字架です。真の赦しを受けた者として、真の赦しをする者とされましょう。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。2コリント5:18

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