2019.11.24
「一緒でなければ」 モーセの生涯⑭
出エジプト記 23章1-23節
神様はモーセのとりなしを受け入れ、民たちを一人残らず滅ぼすというようなことはなさいませんでしたが、ある一つの重大な宣言をなさいます。それは、これからもイスラエルたちは、約束された地に向かって行っても構わないのだけれど、自分は一緒には行かないという大きな宣告でした。この宣言は民たちにとってはショックな、文字通り悪い知らせでした。モーセは「神様、あなたが一緒に行ってくださらないのならば、私たちのどこが他の民族と違うのでしょうか。」と言うのです。
1.人間にとって最大の危険は神様から離れること。
神様の提案は一見すると、妥当な話のように見えますが、モーセや民の反応は全く違いました。彼らは痛み悲しんだのです。神様から離れてしまうということが、どれほど恐ろしい刑罰であるのかを彼らはよく分かっていたのです。
アダムとエバによって、罪がこの世界に入り込んだ瞬間、人間は神様と離れて生きなければならないという最大の罰を受けたのです。そして究極的な状態が、私たちの死後の世界です。そこでは神様と永遠に引き離されるという苦しみが待っているのです。心の底では神様を必要とし、求めながら、それがどこにおられるか分からないという無意識の苦悩を持ちながら、多くの人は生きているのです。神様と離れている限り、決して満たされることのない孤独なのです。この出エジプト記33章は、そんな人間の恐れをよく表しています。本来なら人はすべて、彼らのように悲しみ、痛まなくてはならないのです。この人間最大の罰、人間最大の悲劇を忘れることのないようにしましょう。
2.人間にとって最大の安全は神様と一緒にいること。
モーセは神様の宣告を受けて、考えました。「これはいけない。神様が一緒にいてくださらなければ、私たちは目的地に行けない。安全ではない。」そう考えたのです。そして神様に「神様が一緒にいてくださってはじめて、イスラエルの民は地上の他の民と区別されるのです」というのです。そして神様はこのモーセの訴えに対して、「あなたの言うとおりである」と答えられ、そのとおりにすることを約束されました。
私たちクリスチャンとクリスチャンでない人の違いは何でしょうか。どうやって区別されるのでしょうか。それはここにあるように、神様が一緒にいてくださるかどうかということです。私たちがイエス・キリストを信じた瞬間から、私たち自身のうちに神様が住まわれるという状態になりました。神様が私たちの内にいてくださるので、私たちはたとえこの地上の命が尽きたとしても、死ぬことはなく、生きるのです。神様が一緒にいて下さるということは、これほどまでに力強い、そして安全な、クリスチャンに与えられた特権であるということを覚えましょう。
今朝は、私たちの人生が、この神様から離れている人生なのか、一緒にいる人生なのか、よく考えましょう。神様から離れているのなら、それは恐れと絶望の人生です。しかし、神様が一緒におられるのなら、安全で、力強い人生です。一人一人が、この恵みを感謝していきましょう。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ローマ8:11