その130 赦されるとは

2017.02.26

ルカの福音書7章36-50節

イエスがパリサイ人シモンに食事に招かれたとき、イエスの足を涙でぬぐい、香油を塗った「罪深い」女性がいました。イエスはパリサイ人の心を見抜き、たとえを使って「赦される」とはどういうことなのかを教えられました。

1、背負いきれない苦しみがあることを知っている。

イエスはたとえを話されます。1デナリは当時の一日分の労賃、仮に1万円としましょう。ある人は50万円、ある人は500万円借金していたが、二人ともその借金を免除されたというのです。「さてどちらが赦した金貸しをよけいに愛するだろうか」とイエスはシモンに尋ねます。「多く赦されたほうだと思います」とシモンは答えるのです。

 聖書ではよく私たちの罪のことを借金に例えられます。私たちは神様に負債があるというのです。ここでイエスが教えられたことは、この神様に対する罪という借金が、人によって大小、軽重があるということではありません。皆誰一人の例外もなく、神様に対する背負いきれない借金があり、その罪に苦しんで生きているのです。問題はこの女性のようにそれを自覚しているのか、それともこのパリサイ人のように、人と自分を比べて、「自分は大丈夫だ。あの人に比べればましだ」というふうに考えて生きているかということなのです。

2、代わりに背負ってくれる存在があることを喜ぶ。

この「罪深い」女性は、イエス・キリストが自分の全存在を受け止め、自分の罪の重荷を代わりに背負ってくださる方だということを知ることができました。だから嬉しくて、自分ができる最高の表現として、自分の涙で足をぬらし、高価な油を塗り、髪の毛でぬぐうことによって、精一杯の感謝の喜びを示そうとしたのです。しかしパリサイ人シモンのほうは、自分が抱える重荷にはまったく気づくことなく、「もしイエスが本物の預言者であれば、自分に触っている女がどんなに罪深い者が分かるはずだ」と考えます。そのような人の心は決して軽くなることなく、赦される喜びを実感することもありません。

3.「もう背負わなくても良い」と言ってもらう。

イエスはこの女性に「あなたの罪は赦されています」と言われ、最後には「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と宣言されました。人から非難され、批判され、人の目を恐れて生きてきた彼女は背負いきれなかった苦しみをすべておろし、完全に恐れから解放されて生きる、新しい人生をはじめることができたのです。このように罪の赦しを宣言する権威を持っておられる方は、イエス・キリストの他はおられません。

 自分にも背負いきれない苦しみがあることに気付き、イエスがそれを代わりに背負ってくださることを知り、赦しを宣言される方は幸いです。すべての人にその資格があります。問題は自分の本当の姿に気付くかどうかです。

 キリストの赦しを体験していない方がおられるなら、是非それを今日受け取りましょう。また問題、苦しみのある方は、今日も代わりに背負わってくださるイエス様のところに持っていきましょう。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。             マタイ11:28

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