その167 私は信じる③

2018.05.27

私は信じる③ 

使徒信条シリーズ

ローマ人への手紙6章5-8節

「主は・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに降り・・・」

1、キリストの十字架は歴史的事実である。

聖書や使徒の告白におけるこのポンテオ・ピラトの存在が、私たちが信じるイエス・キリストという人物が、歴史上確かに存在された方であり、その十字架という出来事も、確かな歴史的な事実であることを表しています。

歴史という言葉は英語でHistoryですが、まさに歴史はHis Story、彼の物語、神の物語であります。天地万物を創造された神は、アブラハムの子孫を通して、イスラエルの歴史を通して、そしてイエス・キリストの十字架の苦しみと復活を通して、歴史の中にご自身を表され、この人類の歴史に神が存在し、働いておられることを表されているのです。

2、キリストの十字架は神の愛を表している

十字架刑という刑は、人間を生きたまま釘付けにして、場合によっては何日間もさらしものにして、弱らせて、殺していくという人類の歴史のなかで、もっとも惨たらしい処刑方法だと言われています。

こんな残酷な処刑道具が、どうして神様の愛の象徴なのかと思うのも無理はありません。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

イエス様は我々を救うため、黙々と十字架へ向かって歩まれました。私たちを苦しみから解放するために。私たちに神の愛を示すために。イエス・キリストが十字架に架けられたのは決して偶然ではなく、不幸にしてでもなく、失敗でもありません。イエス様はこれを神様のご計画として、はっきりと自覚された上で、十字架への道を歩まれたのです。

3、キリストの十字架は私たちのために救いの道を開いた。

黄泉は闇の世界であり、死の世界です。そこは闇が支配しています。

死は人の心に悲しみと絶望を与えます。誰でも愛する人と死によって分かれなければなりませんし、また、自分自身もいつかは死ぬということを考えると希望を失います。

イエス様は死なれた後、この死の世界まで降ってゆかれました。そして、来週見ますが、その後三日目によみがえられました。これによって、死の力が破られ、闇の力が圧倒され、罪の力が打ちのめされました。私たちに救いの道が開かれたのです。

イエス様の十字架が自分の罪のためであったと信じて、イエス様は自分の人生の主ですと告白して、洗礼を受けるのならば、信じる人も、キリストと一緒に十字架につけられたことになるのです。そして、キリストが黄泉に降って、よみがえられたので、私たちにも、罪の呪い、死の支配、悪の力に対する圧倒的な勝利が約束されているのです

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。ローマ8:37

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