その189 いのちの水と祈り

2019.02.03

「命の水と祈り」 モーセの生涯⑨

出エジプト記 17章1-13節

17章は大きく二つの部分に分けることができます。一つは水の問題。民たちが水がないと不平不満を言ったので、主はモーセを通して、岩から水を流れ出され、民たちに与えられたというお話と、アマレク人というグループがイスラエルの行く手を塞ぎ、彼らが最初の戦いを経験するというお話です。

1、私たちは命の水を必要としている。

新約聖書のなかで、パウロはここを通して、イスラエルたちが飲んだのは御霊の飲み物で、その岩とはキリストであると表現しています(1コリント10章)。勿論これは直接的なことではなく、霊的な意味でしょうが、それは単なる水ではなく、神様からの霊的な命の水であったということです。

ここで教えられることは、私たちクリスチャンには霊的に飢え渇く時があるということです。私たちのうちに内住しておられるキリストの霊、つまり聖霊の満たしを求めるということが大切なのです。聖霊に満たされることによって始めて、私たちは人間のあらゆる欲望から解放され、毎日毎日を神様とともに生きているということを実感することができます。このイスラエルの民のように、飢え乾きを覚え、弱さを覚え、絶望しそうになったときには、岩なるキリスト・イエスの、霊の糧を求めていきましょう。そうすれば、ともにおられるお方が、必ずそれに答え、私たちを満たし、必要なものもすべて与えられるということを信じていきましょう。

2、心を合わせて祈る。

この戦いは、イスラエルにとっては初めての経験でした。エジプトで奴隷だった彼らは、軍隊で訓練を受けたこともなかったでしょうし、だいたい十分な武器も持っていなかったと思います。その人たちが、他の民族と戦争をしたのですから大変なことです。モーセはヨシュアと他に幾人かを選び、戦いに送り出したと書かれていますが、聖書が焦点としているところは、戦いそのものではありませんでした。モーセが手をあげている時はイスラエルが優勢になり、モーセが手をおろすとアマレクが優勢になったこと。そしてアロンとフルという人たちがモーセの手をささえたので、最終的にイスラエルが勝ったと記述しています。ヨシュアの戦いぶりではなく、モーセたちの祈りぶりに焦点が当てられているのです。

このモーセを教会の指導者、つまり牧師と見てみましょう。牧師は教会員たちが様々な戦いを強いられているのを見て、祈り、とりなしています。しかしモーセが一人で祈り続けることができなかったように、牧師も一人では祈り続けることができないのです。私たちは「祈りの手をあげる」と言いますが、牧師が祈りの手をあげ続けるためには、ここに出てくるアロンやフルのような助け手、牧師を助け、共に祈り、一緒に戦う助け手が必要であることがここにはっきりと示されているのです。牧師と心を一つにし、手を支えてくださる人が多ければ多いほど、私たちの教会はより堅固な教会として、成長していくでしょう。祈りの手をおろさない教会として前進していきましょう。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」  ヨハネ7:37

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