その129 二つの道

ルカの福音書23章32-43節

イエス・キリストが十字架に架けられるシーンです。十字架刑とは、当時のローマ帝国で行われていた最も残酷で厳しい処刑方法でした。実はその時、イエス・キリストの他にも2人の犯罪人が一緒に十字架に架けられていました。そのうちの一人は、死の直前にイエス様から天国への約束を受け取ったのでした。その鍵は何だったのでしょうか?

1、自分の罪を認める。

この犯罪人は自分の罪を認めていました。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言っています。このように言うことは当たり前のことでしょうか。いいえ、人間の本質がそうではないことはもう一人の姿を見ればあきらかです。もう一人の犯罪人は苦し紛れに、自分が悪いことをした報いを受けていることを認められないで、イエス様に「お前はキリストなんだろう。それなら、今すぐ俺たちを助け出せ」と言っています。

罪とは本来は、何かの行動ではなく、状態を表す言葉です。私たちを造り、愛してくださっている神様に背を向けて自分勝手に生きる状態のことを言います。「神なんていない。」「神なんかに頼らなくても生きていける」。そのような傲慢な心を、罪といいます。そしてその傲慢な心が、心のなかの思いとなり、また行動となって色々なところに出てきてしまうのです。この罪の問題を解決することなしに、人間の人生に、本当の意味での平和はやってこないのです。

2、イエスを救い主と認める。

この犯罪人はさらに続けます。「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください。」この言葉はイエスがただの人間ではない。これから死んでいくただの善人でもない。イエスは神の子であり、永遠の命を支配する権威を持っているということを認めたということを表しています。

この朝、神様はここにいる皆に同じ質問を投げかけておられます。「あなたはイエスを誰だと思いますか」偉い人だったかもしれないけど、自分の人生には関係ない人だと思うでしょうか。それとも、自分の人生を変える力を持っている人だ、ということを認めるでしょうか。

3、イエスに求める。

もう一度この犯罪人の言葉を見て見ましょう。「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼はきっと、私も救ってくださいなどということでさえ、はばかれたのだと思います。そんなことをお願いする価値も自分にはない。でも、せめて私を思い出してください、と謙虚な心で求めることができたのです。それはもう一人の犯罪人の「お前はキリストだろう。今自分と俺たちを救え」と言った態度とは全く違うものです。

その言葉に対してイエス・キリストは「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいます」と宣言されたのでした。これが人生最後の大逆転となりました。犯罪人として死刑になって終るという生涯が、イエス・キリストと一緒に天国に行くことができるという永遠のスタートを切ることができたのです。

今私たちの前にも二つの道があります。狭くても永遠の命に向かう道を選び、歩みましょう。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。  1ヨハネ3:16

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