その182 「過越し」の意味 モーセの生涯⑥

2018.11.11

出エジプト記 12章21-27節

1、小羊の血はキリストの十字架のモデル。 

このかもいと門柱に塗られた小羊の血はイスラエルの民にとってはわざわいから免れ、解放されるということを意味していました。モーセの命令通りに、一歳のきずのない雄の小羊を殺し、その血を塗った家は、主が「通り過ぎ」られました。つまり神様の罰を逃れることができたのです。そしてその後彼らを待っていたのは解放でした。彼らはついに、奴隷のくびきから抜け出し、約束の地へと向う旅を始めることができたのです。神様はこの出来事を決して忘れることのないように、儀式とし、年に一度記念して祝いなさいと命じられました。「あなただけではなく、あなたの子孫にも覚えさせなさい」と言うのです。何故でしょうか。それは将来、神の子イエス・キリストが、全人類のための過越しの小羊となるということを理解させるためでした。

イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。マタイ26:1-2

イエスは、自らが、過越しの小羊として、十字架で血を流され、それが、罪の赦しと解放となることを知っておられたのです。小羊の血が家に塗られているのが目印になったように、私たちの心にイエス・キリストを信じる信仰があるのならば、イエスが十字架で流された血潮によって、私たちも裁かれません。これは、何千年も前から、神様が定められた人類の解放のご計画だったのです。

2、環境ではなく身分が変わる。

この「過越し」によって、イスラエルの民はエジプトを出ることができました。このことが教える意味は何でしょうか。彼らは奴隷でした。過酷な労働を強いられていました。将来に希望を持てませんでした。出エジプトはその苦役から解放されたことを意味します。しかし決して奴隷としての環境がなくなったというだけの意味ではありません。彼らは、エジプトの奴隷から「神の民」へと身分が変えられたのです。(厳密に言えばそのことに気づいたのです)。

 私たち現代に生きる者も、したいと思っていることが出来ず、したくないと思っていることをして、苦しんでいるのだとしたら、ある意味それは「奴隷」の状態です。住んでる場所や仕事を変えたとしても、根本的な苦しみから解放されなければ、人は幸せになることはできません。しかしキリストを信じる者は「神の子」とされます。この世での身分が全く変えられるのです。それは環境や状況に左右されません。どこにいて、何をしていたとしても、神の愛と護りがいつも一緒にあるということなのです。

今朝私たちは、単純に、イエス・キリストの血潮によってあがなわれていることを感謝しましょう。神様の御子の血潮は力強く、もう死の恐怖に怯えることはありません。神様に覚えられ、私たちに待っているのは永遠の命であり、永遠の解放です。そのことを感謝しましょう。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。ヨハネ1:12

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