2018.10.28
イエスのたとえ35
ルカの福音書 16章1-9節
1、「不正」とは人間の目から見てということ。
パリサイ人や律法学者たちにとって、イエスが罪人や取税人と食事をすることは、「不正」なことでした。あってはならないこと、やってはならないことだったのです。しかしイエスは15章で3つのたとえを通して、神の目から見るならばそれは「不正」ではないと教えました。神は罪人である私たち人間を探し回り、帰ってくるのを待っていてくださる存在なのだと教えられたのです。その視点で見るならば、この使用人がこっそり主人に負債のある人の借金を減額するという行為は、人間(特にパリサイ人や律法学者)の目から見るならば「不正」なことだけれども、神はそうは見ておられないということを示唆しています。これは一体どういう意味でしょうか。
2、「不正」の富で友をつくるとは赦すこと。
「人の借金を免除する」という行為は人を赦すことを示しています。パリサイ人や律法学者たちは、人々(特に社会的に罪人とみられている人たち)を「神がお許しにならない」と断じて、裁いていました。律法を守ることができないような人を赦して友となるという行為は、宗教家から見れば「不正」でした。しかしイエスは、神に見つけられ、神との関係を回復した弟子たち(クリスチャン)に、人の借金を免じて、つまり赦しがたい人を赦して友となるように教えられたのです。それが「不正」の富で友をつくるということです。神に裁かれて当然の私たちが、人を赦すことで、神に「抜け目なくやった」と認められるのだということです。
聖書は私たちが人を赦すことと、神に赦されることに密接に関連があると繰り返し教えています。人を赦すなら、神に赦され、同時に神に赦された者は、人を赦すのです。人に対する恨みや怒りを捨てて自由を手にいれ、友をつくりましょう。やがてその友と天国で再会するでしょう。天国はそのように、ふさわしくないのに赦された者たちがいくところなのです。
3.最大の「不正」は十字架。
神は私たちを赦すために、御子イエスを十字架につけるということをされました。これは、人間の目から見れば理解できないことであり、あってはならない「不正」なことです。しかし神はあえてこのような形で、私たち人間に救いの道を切り開いてくださったのです。そして信じる者たちを友としてくださいました。
ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
私たちも赦された者、キリストの友として、周りの人たちをみていきましょう。神様や自分に対して負債のある人を、免じることによって、友をつくり、ともに天の御国にまいりましょう。
また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。マルコ11:25