その191 いのちの光

2019.02.17

マルコによる福音書 7章14-23節

私たちは宗教や言葉、文化が違っても、正しさの基準というものを、人それぞれ持っていると思います。そして正しいことをして、神様から認められて、死後に報いを受けたい、そう思って生きている人がほとんどではないでしょうか。問題は自分の正しさの基準が明確に本当の神の基準となっているかどうかです。

イエス・キリストがここで教えられていることは、真の神が私たちに明確に求めておられる基準です。

1、人は行いによっては救われない。

 ユダヤ人たちは、食事の前に手やからだを洗うことなど、色々な言い伝えとしきたりを持ち、口に入るものに気を付けることによって「汚れる」ことから身を守ろうとしていました。彼らは行いに気を付けてさえいれば、「汚れる」ことなく、神に受け入れられ、救われると考えていたのです。

 このように行い、他人の目に写るうわべさえ気を付けていれば、上手くいくのではないかと考えている人はきっと多いと思います。「真面目にしていれば」、とか「人に迷惑を架けなければ」とか、決められたことをきちっと守り、他人の目に「あの人は真面目だ。良い人だ」と思われる人になれば、神様も正しいと認めてくれて、天国にも行けるだろうと考えるわけです。果たしてそうでしょうか。

2、人の心のなかに悪いものがある。

 しかしイエス・キリストは人の口に入るものが人を汚すのではないと教えられました。行動の規則さえ守っていれば良いというのではないと言うのです。うわべを取り繕うことよりも、心のなかの悪い思いが人を「汚し」、自分を神から遠ざけると教えられました。結局、心のなかの思いが言葉と態度と行為に出てくるのですから、その思いが「汚れて」いる限り、神の前に受け入れられることはないのです。どんなに表面を取り繕っても、心の底に溜まった泥がなくなることはないのです。ではどうしたら良いのでしょうか。

3、解決はイエス・キリストにしかない。

 私たちのうちで誰一人、自分の力で心のなかの汚い思いをなくすことができる者はいません。神は私たちがどんなに外側を取り繕い、自分を奇麗に見せようとしても、その心のなかは悪い、汚れた思いがあることを知っておられるのです。どうしたら良いのでしょうか。   

 この問題を解決するには「罪のない人」が人間を代表して、神の怒りを受け、犠牲として捧げられなければなりませんでした。でもそのような人は存在しません。人間は皆罪があり、心が汚れているのです。神はご自分の御子イエス・キリストを人としてこの地に送ってくださいました。そして十字架の上で苦しんで死なせ、3日目によみがえらせることによって、このお方を「信じるだけで」神との関係を回復し、救われるという道を切り開いてくださったのです。キリストを信じるとは光を心のなかに迎え入れるということです。光が入れば闇は消え、存在することができないのです。

 皆さんの心に今、いのちの光があるでしょうか。「私の心には光がありません。闇に覆われています。穢れでいっぱいです」という方がおられるなら、その人はキリストを心にお迎えください。「私の心にお入りください」と祈るだけで良いのです。

イエスはまた彼らに語って言われた。 「わたしは、 世の光です。 わたしに従う者は、 決してやみの中を歩むことがなく、 いのちの光を持つのです。」               ヨハネ8:12

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