その52 「宝さがし」

2014.11.30

イエスのたとえ⑯

マタイの福音書13:45-46

 このたとえ話はマタイの福音書13章に記されている「天の御国」についての7つのたとえ話のうちの1つです。キリストは天の御国は商人がさがして見つけた、高価な真珠のようなものだと教えています。商人は自分の全財産を売り払ってその真珠を手に入れます。さてここで語られる商人、そして真珠とは何を指しているのでしょうか。

1、商人はキリストです。

 このたとえを題材によく語られることは、商人とは私たち人間のことで、人生の宝である天国(あるいは救い主キリスト)を積極的に探し求めましょうというメッセージだと思います。しかしどうもイエス・キリストご自身を商人ととらえたほうが、しっくりいきそうです。

 羊飼いのたとえでもあるように、探し回っておられるのは主のほうです。世界のあちらこちらへと歩き回り、真珠のような宝石を探されるのです。その姿はエデンの園で「あなたは、どこにいるのか?」と言われた父なる神、そして神であられるのに、人の姿をとり地上に来られた御子キリストをあらわしています。神はじっと待たれる神であると同時に、積極的に歩きまわり、声をかけられる神でもあられるのです。この神のさがし、呼ぶ声に応えることが信仰です。

2、真珠とは私たちのことです。

 とすると真珠は何を指すかは言うまでもありません。私たち人間のことです。「宝さがし」とはイエスさまによる宝さがしであり、宝とは私たちのことなのです。

 真珠はダイヤやルビーなどの鉱石の宝石とは違います。貝のなかで生成される命の産物です。貝殻の成分を作る外套膜(がいとうまく)という器官が偶然貝のなかに入り込むことによって真珠が形成されます。ですから天然の真珠は非常に価値が高いのです。

 私たちも罪を背負い、思うように生きることができず、人を傷つけ、傷つけられ、苦しみのなかを歩みますが、キリストを信じて告白するときに聖霊という神の霊がはいってくださいます。誰も価値を認めないとしても、神の目には高価で尊い存在なのです。自分がそのように神に見られていることを感謝しましょう。

3、私たちは神のものです。

 この商人は喜んで持ち物全部を売り払い、見つけた真珠を手に入れました。その真珠にはそれほどの価値があったからです。

 まさにキリストは十字架の死を通して、文字通りすべてを捨てて、自分の命までも投げ出して、私たちを買い取ってくださったのです。これを恵みといいます。永遠の命はどんなにお金を積んでも手に入れることはできません。地上での安心も、死後の世界の安心も、本当の神に見出されるまでは持つことはできないのです。キリストの十字架の血潮だけがそのことをできるのです。私たちは力も知恵もなく、何もできない者ですが、神は私たちのなかに、それほどの価値を認めてくださり、そこまでしてくださったのです。

 私たちができることは、この神の呼ぶ声に応答し、神のものとなることです。途方もなく大きな、キリストの犠牲を思い、そのためにこのクリスマスに人となってきてくださった愛の大きさを覚えましょう。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 ヨハネ15:16

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