その137 やりがい、生きがい、良い人生

2017.05.07

創世記45章1−15節

最愛の弟ベニヤミンを含めて、兄弟たちとの2回目の再会となったヨセフは、とうとう自分の正体を兄弟たちに明かします。そして「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」と言いました。

1、自分の人生を神の計画に合わせる。

 ヨセフは自分の人生を神様の計画に重ね合わせて見ることができました。「俺はお前たちのせいで偉い目に遭ったぞ。これからお前らを苦しめてやる。覚悟しろ。」とは言わず「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」と言いました。「遣わされた」という言葉には、ただ単に来させられたという意味以上に、何か使命を持って来ることになったという意味が込められています。そうです。ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトに来させられたのではない、何か大きな計画の中で、自分が生かせられていた使命があったのだと自覚していたのです。

聖書はクリスチャンの幸いとは、何の苦しみも痛みもないことなのではなく、自分の人生が神様の計画に基づいていることを知ることだと教えています。それがたとえ一時的な痛みや苦しみであったとしても、神様はそれを計画されて、何か目的を持って、導こうとされているのだと悟ることが、クリスチャンの本当の幸いだと教えているのです。

2、神を愛する。

 聖書には、神様を愛する人の上には人生で起るすべてのことが益に変えられると約束されています。神様を愛さない人は、神様のご計画に召されていないし、その苦しみには何の意味もないわけです。しかし神の計画に従って生きる人は良い人生を送れます。こう考えてみると、ヨセフという人は神様を愛していた人だったことが分かります。彼は困難の中で、少しづつ学んで、一国のトップに立つほどになりました。私たちももし、苦しみをただの苦しみとして通り過ぎるだけなら、それ自体に意味はありませんが、これはきっと何か意味があるはずだと、信じることができるのです。鍵は私たちがどれだけ神様を愛しているかにかかっています。愚痴や不平不満を言うのではなく、主を愛して、目に見えない幸いを待ち望む、そんなクリスチャンになっていこうではありませんか。

3、聖霊に満たされる。

 エジプトの王はヨセフについて「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか(創41:38)」と言いました。ヨセフは常に神とともに生き、神の霊に満たされていたのです。私たちも、聖霊の恵みと導きに与ることができます。一度しかない人生を、やりがい、生きがい、良い人生にすることができます。日々御言葉に親しみ、祈り、聖霊に満たされ、聖霊に導かれる歩みをしていきましょう。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28

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