その136 絶望から希望へ

2017.04.23

ルカの福音書24章13-35節

エルサレムを逃げるように離れ、エマオへの途上にあった二人の弟子は、人生の望みが砕かれ、失望と不安のなかを歩いていました。そこに復活したイエス様が来てくださいました。イエス様と再会したと気付いた彼らは、もう一度エルサレムに戻っていきました。私たちが、希望を失ったり、不安におびえたりするときに、イエス様が何をしてくださるのか思い出しましょう。

復活したイエス・キリストは・・・

1、私たちと一緒に歩いてくださる。

24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

彼らは一緒に歩いている方が誰であるかは知りませんでした。もちろんイエス様に一緒に歩いてくださるよう求めたわけでもありません。しかし、イエス様は一方的に、失望のどん底にいる彼らに近づいて、一緒に歩いてくださったのです。このことは一体何を意味するのでしょうか。一緒に歩くという行為は、その人の友となり、痛みや苦しみさえも共有するという神様ご自身の決意が表されています。

イエス様は今も、この世界のあらゆる道を歩き、そこにいる私たちの友となってくださり、一緒に歩いてくださるお方なのです。失望のなかにあるときにも、イエス様が一緒にいてくださることを信じましょう。

2、私たちの心を燃やされる。

24:32「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」

よみがえられたイエス様が語りかけ、教えられるのを聞いていたとき、弱虫だった、恐れていた、絶望のどん底だった自分たちの心が燃やされているのをはっきりと感じることができたのです。その後彼らはどうしたでしょうか。もう一度エルサレムに引き返したのです。

彼らは何故心を燃やされたのでしょうか。

24:27イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。

私たちの持っている信仰は単なる感動とか、感情の上に立っているのではありません。聖書全体が、「イエスは主」、「イエスはキリスト」、「イエスは救い主」であると証言しているのです。そのことを知ったとき、人の心は燃やされ、じっとしていられなくなるのです。新しい人生の生きがいというものを見出すのです。

自分が暗闇の中で一人ぼっちでいるような気がする時、イエス様が近づいて、一緒に歩いてくださっていることを思い出しましょう。イエス様が聖書の言葉を通して、私たちの心を燃やされることを期待しましょう。日々聖書を開き、今日も新しい生きがいを与えてくださいと祈りましょう。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

マタイ28:20

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