その201 十戒②

2019.06.16

十戒② 

出エジプト記 20章1-17節

3戒 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。・・・

4戒 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・

神を信じるならば相応しい生き方をせよ!!!

1、神を畏れる生き方。

「畏れる」という言葉は「恐怖する」という意味ではなく、「尊敬し、礼拝する」という意味があります。つまり、自分よりも偉大な存在を認めること、自分が礼拝すべき存在を認めることです。

「みだりに」の意味には、不敬虔、不真面目、偽善があります。神を信じると言いながら、それに全く相応しくない言動をしているのならば、その人には神に対する「畏れ」がなく、神の名を汚していると見られることでしょう。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。  マタイ10:28

「神を畏れる人生に恐れなし」という言葉があります。神を敬い、優先順位をしっかり持つことによって、あらゆる事柄に対処する知恵も与えられます。

神を畏れて生きましょう。

2、神との関係を大切にする生き方。

この戒めは、5-10戒の直前にあり、対神関係と対人関係を結ぶ重要な事柄を教えています。

神は天地創造の際、6日ですべてを造られ7日目に休まれました。神の似姿に造られた人間も、倣うように言われています。すなわち、神様は私たち人間と親しい交わり、関係を持つことを望んでおられるのです。神を想い、神と親しく過ごす時間を持つように、神様は安息日を定められました。

しかし人間はこの原則を誤って解釈し、多くの掟を付随させました。イエス様は安息日に人を癒したことによって、律法学者たちから大きな迫害を受けることとなります。イエス様は安息日は本来、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないと教えられました。

聖という言葉はいのちと深いつながりがあります。安息日を聖とされたということは、私たち人間がいのちを回復させるためだということです。

クリスチャンとしての義務とか責務ということではなく、いのちの回復として、私たちは聖日礼拝を守らなければなりません。

神様との関係をしっかりと保つことができて初めて、私たちは次に続く人間関係において豊かな祝福を受けることができるのです。

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」  

   マルコ2::27

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