その233 信仰の目、信仰の口

2022.02.13

民数記14:1-9

モーセは、カナンの地に12人の偵察隊を向わせました。40日後、彼らは戻ってきて報告しました。12人のうち10人の報告は非常に悲観的でした。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」その報告を聞いて人々は絶望し、動揺し「違うリーダーを立ててエジプトに帰ろう」と言い出します。

その時、ヨシュアとカレブが他の10人と全く違うことを主張し始めるのです。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

1、信仰の目で見る。

偵察を任された他の10人たちとヨシュアとカレブは全く同じものを見ました。カナンにいる人たちを観察し、人口や兵力や、土地の様子や作物の状態などを見たのです。しかし出した結論は全く正反対でした。この違いは一体どこから来るのでしょうか。ヨシュアとカレブは信仰の目で物事を見ることができたということです。10人の偵察者たちは「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と言いました。人間の目にはそれは正しい認識だったかもしれません。しかし、彼らは神様が一緒におられることを忘れて、恐れてしまったのです。荒野において彼らを導かれた主が、彼らとともにおられるという大切なことを見落としていたのです。

彼らのこの態度を私たちは笑ったり批判したりすることはできません。彼らの姿こそ、私たちの姿となっていることが、日常生活の中でたびたびあるからです。私たちも、いつも神様が一緒にいてくださることを知っていながらそのことを忘れ、目に見えることに慌てたり、不満を持ったり、絶望したりすることがあるのです。

目に見えない神を信頼し、信仰の目をもって物事を見ていきましょう。

2、信仰の口で語る。

ヨシュアとカレブは、信仰の目で見ただけではなく、その見たことを、人々に大きな声で証しました。「私たちが巡り歩いて見た地は素晴らしく良い地だった」。周りは非常に雰囲気が悪く、不穏な空気がただよっていました。そのような中で、自分の本当の気持ちを隠して、流されることもできたかもしれません。しかし彼らは自分たちが見たものをだまっていることはできませんでした。いや、彼ら自身の信仰を表明せずにはいられなかったのです。

私たち信仰者は、信仰の目を持って見たものを、証言するという責任が与えられています。自分の力ではできなくとも、聖霊の力をいただいて、神の恵み、神の御業、神の愛を、大胆に証言する信仰者となろうではありませんか。周りに1人もクリスチャンがいなくて、誰も理解してくれなかったとしても、私たちには神様がおられます。神様が聞いていてくださいます。私たちが今向っている約束の地は、天の都という何にも変えがたい場所です。私たちが信仰の目で見ている永遠の御国がどんなに素晴らしいところであるかを証言していくものとなりましょう。

今週の暗証聖句

私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。                 使徒4:20

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