その210 「私はいる」

2019.11.10

出エジプト記 3章13-14節

1.世界観が人生観を決める。

 私たちは何らかの世界観「この世界はこんな世界だ」という感覚を持っています。そしてそれが自らの人生観を形作ります。例えば「この世界は努力が報われる世界だ」という世界観を持つ人は「努力は必ず報われる」という前提に立つ人生観を持ちます。一方「この世界は努力が報われない世界だ」という世界観を持つならば、努力に重きを置かない人生観となるでしょう。「周りの人は皆私を助けてくれる」という世界観を持つならばそれに合った人生観が作られ、「周りの人は敵ばかりだ」という世界観を持つならばそのような人生観に従って自分の人生を生きるようになるのです。

 ところでこの世界観を突き詰めていくとはっきりと二つに分かれます。「この世界を造った神がいる」という世界観と「この世界は偶然にできた」という世界観です。中間はありません。「どちらも選ばない」という選択肢もありません。皆究極的にはどちらかに立って人生を構築していかなければならないのです。聖書が示している神は「私はいる」と言われる神であり、この神が天地万物を造られたと証言しています。このような神を拒否する人の世界は弱肉強食、適者生存、優勝劣敗、自然淘汰となってしまいます。あなたはどちらの世界観に立って自分の人生を建てあげていくでしょうか。

2.自分をどう見るかが人生観を決める。

 もう一つの自分の人生観を決定するものが「自分をどう見るか」です。キリスト教は「性悪説」でしょうか?教会では「人間はみな罪人」と教えるのでそう考えている人が多いでしょう。しかし聖書によると、最初の人間の状態は善であり、すべての面において完璧だったのです。神が初めから老いたり、病気になったり、死んだりする存在を創るでしょうか?人間は年取ることもなく、病気になることもなく、死ぬこともなく、永遠に神とともに生きるために創られたのです。

 しかし罪がこの世界に入いました。この罪が人間のあらゆる苦しみの原因です。悪いことをするということではなく、神から離れている状態が罪です。神との絆が断ち切られてしまったために、人間は肉体的には、老、病、死から逃れられない存在となりました。そして精神的には常に「欠乏感」に悩むものとなったのです。

3、キリストの命を自分の命とする。

 人間が神に元々創られたときの状態に戻ること、すなわち神と親しい関係であった「本当の自分を取り戻す」以外に解決はないのです。しかし切れてしまった神との愛の絆をどうやったら回復できるのでしょうか?人間の努力や行いでは不可能です。私たちの中に、私たちの身代わりとなって十字架のうえで死んでくださり、よみがえられたキリストの霊に、入っていただくしかありません。

 私たちがキリストを信じ、口で告白して祈るとき、復活されたキリストの霊が入ってくださるのです。そして途切れていた神との絆が回復し、神の子としての身分を取り戻すことができるのです。

確かに復活は凄いことです。天国で永遠に生きることは特別なことです。しかし一方で見方を変えるなら、元々創られた本来の状態に戻るという言い方もできます。その初穂がキリストであり、私たちも続々とその後に続くことができるということです。本当の自分を取り戻すとは、神様に愛されているという本来の状態に戻ることです。もう欠乏感に苦しむことはありません。また、この地上での肉体が衰え、滅びても、来たる世では、年取ることも、病気になることも、死ぬこともない、永遠の肉体が与えられるのです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」     マタイ 28:20

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