その216 空っぽの墓

2021.04.04

マルコの福音書16章1-8節

キリスト教はキリストの十字架とその後の空っぽだった墓からはじまりました。この朝、人類の歴史の流れが変わったのです。この墓が今を生きる私たちに何を教えているのか考えていきましょう。

1、もう不安、恐れに縛られない。

日曜日の朝、イエスの遺体に油を塗りにいった女性たちには心配なことがありました。それは墓の入り口に大きな石が置かれ、塞がれていたということです。「だれがあの石をどけてくれるか」と話し合っていたのですが、彼女たちが行ってみるとすでに石はわきにころがされていたのでした。このことはキリストの復活によって、私たちには心配や恐れに縛られる必要がないことを表しています。

私たちは生きていく上でいろいろなことを恐れ、心配します。道が塞がれてこれ以上先に行けないように感じることがあります。他の人を頼り「誰が助けてくれるだろうか」と不安になることもあります。しかしよみがえられたキリストが一緒であるなら、私たちの道に立ちふさがる大きな石は、もうとり除かれているのです。キリストのメッセージは一貫して「恐れるな。心配するな」でした。空っぽの墓は私たちがもう恐れや不安に縛られなくても良いことを教えています。

2、もう過去に縛られない。

女性たちはイエスの遺体が腐敗して臭い臭いを出さないように香料を塗りに行きました。過去の思い出に縛られ、前に進むことのできない人間の姿です。しかし空っぽの墓は彼女たちに、悲しみや苦しみはもう過ぎ去り、新しい人生が始まったことを表しました。「あの時は良かった。あんなことさえなければ」と過去に縛られ、前を向くことができない人が多くいます。遺体に香料を塗るように、過去にしがみ付き、新しい一歩を踏み出せないことがあります。しかしよみがえられたキリストは、私たちの背中を押し、新しい世界に踏み出す勇気を与えてくださいます。弟子たちは「全世界に」出てゆくようにチャレンジを受けたのです。空っぽの墓は私たちはもう過去に縛られなくても良いことを教えています。

3、もう罪、罪責感に縛られない。

彼ら、特に弟子たちには愛する師を見捨てて逃げてしまった罪責感があったに違いありません。しかし空っぽの墓は、彼らの裏切り行為が帳消しにされ、後悔や自分を責める気持ちから解放されたことを表しています。罪は私たち人間の苦しみの根源です。そしてそこから様々な問題が起こります。罪の結果である死は誰にでも訪れる裁きと絶望です。キリストはそのすべてを背負って十字架に架ってくださり、よみがえることによって罪と死に対する勝利を表されました。キリストを信じるならもう死は終わりではありません。空っぽの墓は私たちがもう罪と死に縛られていないことを教えています。

4、生きているキリストに出会うため。

空っぽの墓は最後にキリストが今も生きていることを教えています。私たちはキリストが生きているからこそ、彼と出会うことができるのです。キリストは今も私たちの心に語りかけています。この方を信じて、新しい人生を歩みましょう。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 ヘブル 13:8

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする