その145 主の祈り①

2017.08.13

マタイの福音書6章9-16節

主の祈りは、最初のクリスチャンたちも、最初の教会で、祈っていたものです。プロテスタントに限らず、カトリックや正教会を含めて、すべてのクリスチャンに、おなじみの祈りですが、イエス様がこのように祈れと言われた以上、何の意味も力もないわけがありません。この祈りには私たちの人生そのものを変えていく大きなパワーが秘められているのです。

主の祈りの目的

1、神と人間の関係を明らかにしている。

この祈りを通して私たちは、神は神であり、人間は人間にすぎないということを告白します。この世界を造られた絶対的な神が存在し、私たちはその方を必要としているということをまず知らなくてはなりません。この主の祈りは、まずそのことを告白することではじまっているわけです。

2、人間の生きる目的を明らかにしている。

「自分は一体どうやって生きていけば良いのか。」それが多くの人の疑問であり、悩みであると思います。イエス様はこの祈りを通して明確に、「人が生きる目的はただ一つ。神様の栄光が、自分の人生の上に表されることだ」と教えておられます。私たちは、この主の祈りを通して、「大切なのは私ではなく神様、あなたです」と日々告白しているのです。

3、人間の幸福の秘訣を明らかにしている。

「どうしたら幸福を手に入れることができるか。」これも多くの人が追い求めていることだと思います。イエス様は主の祈りを通して、私たち人間がどうやったら幸福で満ち足りた人生を送ることができるか教え、それを祈りとして、神様に願うようにと導いておられます。

「天にまします我らの父よ」

この祈りの冒頭の言葉にはどんな意味が込められているのでしょうか。

1、神様は絶対的なかた。

「天におられる」という言葉を通して、私たちの信じている神は、「人間が造った神」ではなく、「人間を創られた神」だと宣言します。神のことばである聖書は、全宇宙を創造されたのは神(God)であることを明確に語っています。イエス様は、私たちが祈る対象は、そのような大きな、全能の神なのだとまず教えられたのです。私たちの祈りを聞いておられる方は、天地を創られた全能の神であることを信じましょう。

2、神様は父なるかた。

「我らの父よ」と、神様は天地万物を創造された絶対的な方であると同時に、お父さんのように、私たちを覚え、愛しておられ、何でも聞いてくださる神様なのだと、イエス・キリストは教えています。「放蕩息子」(ルカ15章)のたとえを通して、イエス様は天の神様は失われた息子の帰りを喜んで迎え入れて下さる父のような存在であると教えられました。人間というのは、いろいろな時に孤独感に襲われることがあります。しかし、自分には帰るべきところがある。恐れないで帰るのであれば、天の父は喜んで自分を迎え入れてくださると、信じることができる人生はなんと素晴らしいものでしょうか。この神様の無限の愛を信じて祈りましょう。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

イザヤ 46:4

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