その187 行き止まり

2019.01.13

「行き止まり」 モーセの生涯⑦

出エジプト記 14章8-14節

いよいよイスラエルたちは、エジプトから完全に離れ、出発しようとします。しかし、何と主は、イスラエルの民たちを行き止まりと言えるような海辺へと導かれたのでした。

1、主は私たちを「行き止まり」に導かれることがある。 

イスラエルの人々は過越しの夜を通して完全な解放を受けることができました。奴隷ではなく、神の約束の民としての新しい一歩を歩みだしたのです。ところがどうでしょうか。彼らが導かれたのは行き止まりの海辺でした。しかも後ろからはエジプトの軍隊。彼らの恐怖、そして不満はよく分かります。

私たちもイエス様の十字架の血潮によって清められ、救われました。それはまさに奇跡であり、恵みです。しかしどうでしょうか。その後すぐ私たちは天国に行けるのでしょうか。いいえ違います。救われた後も、それまでと同じようにこの世で生きるのです。そして時には行き止まりに見えるところに導かれることがあります。「前を見ても、後ろを見ても、どこにも行くところがない。自分はもうおしまいだ。どうして神様はこんなところに自分を連れてきたのだろうか。」そのように思える、人生の八方塞を、体験することがあるかもしれないのです。

ここで覚えたいのは、信仰生活は決して平坦ではないし、すぐに成長して、目的地に入れるような楽なものではないということです。神様は私たちを愛し、そして愛されるがゆえに、教育、訓練を施されます。それが時には荒野を通らせ、海の岸辺に立たせ、後ろから敵に迫らせるような場面になるようなこともあるということです。その時私たちは、すべては神様の御手の中にあり、すべての解決が神様にあることを信じなくてはなりません。

2、神様が私たちを助ける。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

私たち信仰者は時には行き止まりと見えるような場所に放り出され、前は大きな壁、後ろからは巨大な敵が迫ってきているような状況に陥ることがあるかもしれません。しかし主が、私たちのために戦われるのだと聖書は教えています。人間の目には不可能に見える状態、人間の目には八方塞で逃げることもできないような状況の中で、主が立ち上がられ、主が闘われ、主が勝利を収められる。これが聖書が繰り返し私たちに与えている約束です。

私たちに勝利を見させてくださる主に感謝を捧げましょう。私たちを苦しい状況から助け出してくださる主に感謝とまことを捧げましょう。私たち自身が優れているからではなく、私たち自身に力があるからではなく、主に全ての主権があり、あらゆる状況の中で、主が私たちを導かれ、訓練され、成長を促し、そして勝利を見させてくださるのです。このことを感謝して、主の勝利を高らかに宣言しようではありませんか。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ロマ 9:33

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