その206 最も小さな者たち イエスのたとえ37

2019.09.01

「最も小さい者たち」  イエスのたとえ37

マタイによる福音書 25章31-46節

このたとえは、24章から続く世の終わりについての教えの結論部分です。

1、人生が清算される。

 イエスはその働きの始めから来るべき神の国について教えておられました。そしてご自身がその御国の王として来られると予告されたのです。その時すべての者が裁きの座に立たされ、一人ひとりの人生が清算されることになるのです。

 このことは決して悪いことではありません。人間同士では分からないこと、決着がつかないことも、神様が最後に決着をつけてくださるのです。私たちはこの事実を厳粛に受け止めて、日々を過ごしていかなければなりません。私たちの日頃の思い、行いを見てくださっている方がおられます。この世では何も報いがないように思えるものでさえ、神様は見ておられ、それぞれの人生に報いてくださるのです。

2、生き様が見られている。

 このたとえ話で気づくのは、羊の側に選り分けられた人たちも、山羊の側に選り分けられた人たちも、両方王の言葉に驚いているということです。「私たちがいつ・・・しましたか」「私たちはいつ・・・しませんでしたか」と言っています。予め分かっていたことをやっていた、あるいはやっていなかったということであれば、この話(キリスト教信仰)は「行いによる救い」ということになるでしょう。しかしそうではありません。自分でも気づかないでした(しなかった)行為が評価されているのですから、大切なのは行いそれ自体ではなく、「日頃の心の持ちよう」とそれを土台としたその人の「生き様」ということになるでしょう。日頃接する他の人に対してどのような心で接し、どのように振る舞うかを問われているということです。たとえ立派な行いでも、心にもないことをしたということであれば意味がないということなのです。

3.聖霊に導かれて。

 イエスは「最も小さな者たち」とはご自分のことだと言われました。「その人に親切にしろ。あの人を助けろ」ではなく、私たちの周りにいる、特に教会のなかにいる弱っている人、困っている人、傷ついている人、助けを必要としている人こそが、「キリスト」なのだというのです。どうしたらこのことを理解し、行動に移すことが出来るでしょうか。神の霊である聖霊に導かれるしかありません。日々聖霊と交わり、聖霊の声を聞き、聖霊の促しによって行動するのです。私たちがキリストの霊に導かれて歩むならば、今日出会う一人ひとりの人に、どのような言葉をかけ、どのように接するかを教えていただくことができるでしょう。

 私たちの人生が手に入れたもので決まるのではなく、与えたもので決まるということを忘れることのないようにしましょう。キリストの心で、私たちの身近にいる「キリスト」に接してまいりましょう。

「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」Ⅰサムエル 16:7

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