その241 契約の神

ヨシュアの生涯⑪

                  

ヨシュア記 9章1-27節

ヨシュアとイスラエルの民がカナンの地を征服する話が続いていますが、9章と10章は対になっているところです。2つの章を見比べると、そのポイントがよく理解できるでしょう。ギブオン人というグループと、10章に出てくるカナンの南部の5人の王たちが対象的に書かれています。分かりやすく言うならば救いに入れられたギブオン人と滅ぼされた5人の王の国ということができます。この違いはどこにあったのでしょうか。

1、契約を重んじる神

いくら騙されたとはいえ、ギブオンと盟約を結んだことは、ヨシュアの過ちでありました。「主の指示を仰がなかった」と書かれています。本来ならばやはり、ヨシュアは、神様の前に出て、この判断が正しいかどうか聞くべきでした。しかしそれをしなかったので、後で自分たちが騙されたということに気がつきます。

一方でヨシュアたちは、騙されたと分かってもなお、ギブオン人たちを追い出そうとしませんでした。人間の理屈から言えば、騙したほうが悪いので、契約を破棄して、彼らを追い出してもよい場面ではありますが、これは神ご自身の契約でもありますので、イスラエルの神の名誉にかけて、この契約を破棄して、彼らを追い出すということはしなかったのです。

ここで私たちが覚えなければならないことは、神様は契約の神だということです。私たちも今、神様との契約を持っています。それは御子イエス・キリストの十字架と復活の業を信じるならば、神様は私たちを義と認めて、永遠の命を与えてくださるということです。これは契約ですので、この条件が満たされている以上は、破棄されることはありません。私たちがどんな人間であったとしても、契約は有効であり、神様はご自身の名誉のためにも、そして愛のゆえに、私たちを赦し、祝福し、守ってくださるのです。主を褒め称え、主イエス・キリストの御業による契約に感謝しましょう。

2、救われるためにへりくだる

人を騙すということは良いことではありませんが、彼らの何としても助かりたい、何としても生き延びたいという姿勢は、注目しなければならない態度です。みすぼらしい身なりをして歩くということは大変だったと思います。大変な謙遜がなければできないことでしょう。しかし救われるためには、他に選択の余地はないというのが、彼らの下した結論でした。

私たちも本来は、本当にへりくだって、跪いて、必死になって求めなければならない救いです。私たちは、もう自分の格好だとか、世間体だとか、名誉だとか、プライドだとか、そんなものをかなぐり捨ててまでも、救われるために必死にならければならないのです。そのとき、神様に見出され、救いを受け取ることができた喜びと感謝が実感できるのです。

今朝は改めて、救われている喜びを感謝し、心の中に傲慢な思いがないか、本当にへりくだって、主を毎日求めているか吟味していきましょう。

今週の暗証聖句

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

Ⅰペテロ 5:6

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