2026.10.04
ヨハネの福音書1章9-14節
なぜイエス・キリストなのでしょうか。なぜイエスを信じなければならないのでしょうか。なぜイエスは救い主なのでしょうか。「イエスでなければならない理由」を考えてみましょう。
1、イエスだけが神を私たちに示されたから。
人間は昔から「神とはどのような方なのか」を探し続けてきました。しかしキリスト教の主張は、「人間が神を見つけた」ことではなく、神が人間のところへ来られたというものです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ1:14
神ご自身が人となり、私たちのところに来てくださり、神を示してくださいました。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」ヨハネ14:9
イエスは単に「神について教えた教師」ではありません。神そのものを示されたのです。
ですから、「なぜイエスなのか?」への第一の答えは、見えない神が、イエスにおいてご自分を現されたからです。
2、イエスだけが私たちの罪を引き受けられたから。
人間の根本的問題を聖書は「罪」と捉えます。問題は、知識が足りないことだけでも、努力が足りないことでもありません。神との関係が壊れていることです。
そして、人間は自分自身の努力だけでその罪を消すことができません。
「キリストは、私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死なれた。」ローマ5:8
十字架で起こったことは、「良い人が犠牲になった」というだけではありません。キリスト教信仰では、罪のないキリストが、罪ある私たちに代わって死なれたと理解します。
だから救いは、「もっと良い人間になりなさい」から始まるのではなく、「キリストがあなたのためにすでにしてくださったことを受け取りなさい」から始まります。
3,イエスだけが死に勝利されたから。
ここがキリスト教の決定的な主張です。
もしイエスが十字架で死んで終わったのであれば、イエスは偉大な宗教家の一人という理解にとどまり得ます。しかし新約聖書は一貫して、「この方はよみがえられた」と宣言します。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25
パウロ自身も、「キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰は空しい」とまで言っています(Ⅰコリント15:17)。
つまりキリスト教は、単に「イエスの教えは素晴らしい」と言っているのではありません。イエスは死に勝利し、今も生きておられる。だから、この方に永遠のいのちがあると宣言しているのです。
日本ではよく、「宗教はどれも同じようなものでしょう」
と言われます。確かに、多くの宗教には、人間が真剣に向き合ってきた共通の問いがあります。しかし、キリスト教の中心には、思想や戒律だけではなく、一人の方がおられます。
イエス・キリストです。一度、イエスという方を見てください。「あなたは、このイエスをどうしますか?」
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。 使徒4:12